スポットライトミュージカルの魅力
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スポットライトミュージカルが好きです。 ドイツのFulda発のミュージカル製作会社で、基本的に活動してるのは夏のみ。 ほかの地域での上演も少しはありますが、基本的に夏のFuldaがメインの活動領域です。 演奏はテープでよく「なんで生演奏にしないの?」とつっこまれてますが、「お金がない」で基本却下されてます(つたないドイツ語調べ)。
このプロダクションの作品を見に5回渡独しております。 曲はワンパターンだしダンスは初演が21世紀だとは信じられないレベルだし、いろいろ難点があるのが分かってるのにやめられない理由は一つ。 キャストが本当にいいんです。 「いい役者が出演している」というのもありますが、それよりも楽しいのが、「その役者のための役」であり、「その役者ありきの作品」であるオリジナルミュージカルが見られるというのが楽しいんです。 もとある作品に役者を合わせるのでないから初演キャストの音域に声がぴったり当てはまっているのがまずおもしろい。 声質、ルックス、年齢、役者の持ついろんな側面がいろんなものが作品に影響を与えているのがおもしろい。 役者同士のバランスが年齢背格好に至るまで気を使われているのが楽しい。 それがオリジナルだから、そうやって役者が作品に影響を与えて、作品が仕上がるのが本当におもしろい。 役者の個性を全部引き出して、それを組み合わせて作品にしている。 登用される役者が結構好みなこともあって、この「役者ありき」で作られる世界の楽しさにはまっています。 作品も歴史ものだけれど現代に投影したテーマがないというあたりが大変好み。
いろいろな役を演じられるのが役者としてのゴールだとは分かっているつもりです。 でも、「この人のための曲」「この人のための役」「この人がいるからこその物語」というのはまたおもしろいものです。 Sabrina Weckerlin、Mathias Edenborn、Chris Murrayは「名作」と言われる作品よりこのプロダクションの作品の方が好きです。 「女教皇」ではSabrinaが力強いのにはかなく見える瞬間があるのがとても好きですし、隣にいるMathiasが情けないだめ男でもそこにもの悲しさが見えるのと色気がだだもれなのが大好きです。 また、体格のいいMathiasの隣にいると、決して小さくはないSabrinaがどこか華奢で儚く見えるのがとても好き。 Chris Murrayのフリードリヒはカリスマ的な君主、人間嫌いのくそじじい、だけどどこかチャーミングな人間…と多面的な魅力を見せてくれます。 作品自体に文句があっても、役者の魅力を余すことなく引き出してると思うので、次はどんな役者でどんな作品を作ってくれるだろうと楽しみで仕方ありません。
次に見に行けるのがいつになるか分かりませんが、「夏の航空券は高いんだよ!」と文句を言いつつ、また見に行くと思います。
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(2014/10/03(Fri) 23:09:15)
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無駄にこだわる
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「フリードリヒ」はありがたいことにCDとDVDが出ているのですが、今まで歌詞カードがどこにもなかった。 先日楽譜が出たので、そこから歌詞を引っ張り出してぽつぽつと翻訳してます(単語の区切りが分からず死亡すること多数)。
それはさておき、当たり前ですが訳していくと聞き取れなかった部分がずいぶんはっきりしてきます。 若フリッツをあほの子あほの子と呼んでいましたが、意外と賢かった。 ミュージカルの7割くらいは彼が16歳、18歳の頃のことです(老フリッツがいろいろ語ってますが、それは台本がないので未だによくわかってない)。 自分が王になった後の新しい時代をどうしたいか自分の言葉で語れる、父親からの罵り言葉に反論するときにも過去の哲学者の言葉を引用することができる、投獄され自分の処刑がほぼ確定していると感じてもそれを飲み込むことができる…と、若いころから結構肝が据わってるというか、王者の資質があるというか、しっかりしてるなあと思ったのです。 お花畑でフルート吹いたり詩歌を作ったりしてるだけの妖精さんじゃなかった。
で、ドイツで「レディベス」上演するならどうなるだろうとふっと思った。 フリードリヒ大王とエリザベス1世がそれぞれの国でどういう扱いかわかりません。 フリードリヒ大王はあくまでプロイセンの王だからドイツじゃ地域によって若干感覚が違うんじゃないかなあと推測するくらい。
「フリードリヒ」は上演回数も大したことない、小さなプロダクションのミュージカルです。 だから、たとえドイツで「レディベス」が上演されたとしても、比較できるのは関連のお仕事してる人かマニアくらいでしょう。 でも、日本の「レディベス」まんまをドイツで上演したらそれはそれでまずい気がするのです。 いかなる理由があっても、自国の過去の王は王の資質があるように描いて、他国の王は王者の資質の面は役者の表現任せじゃいかにもまずいと思うのですよ。
いや、不幸な人同士を比較するって意味ないことは一応はわかってます。 でも、王太子なのに父王があまりにもひどかったから虐待に等しい環境で育ったとか(聞き取れる範囲でも服買ってくれないから寒さに震えてるとか食事は少な目にしろとかろくなことしてない)、自由で明るい未来がどんなものか自分の言葉で語れるとか、即位できるかとか以前に本当に父王に処刑されかけたとか、それをきっかけに親友を処刑され一番の理解者である姉と引き離されたとか。 …そんな青年時代を生き抜いてきた、王になるべくして生まれた人物だった…という物語を上演した後で、一人の平凡な少女が恋を捨てて王になる物語を上演するのはどうかと思ったのでした。 しかも近隣国の話だし。
そんなわけでもし、もしもドイツで上演されるならもっと歴史的側面が強く出た重い作品だといいなあと…結局妄想はそこに行きつきます。
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(2014/09/20(Sat) 00:27:45)
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「レディベス」とスポットライトミュージカル
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スポットライトミュージカルとレディベスを比べてはなんとももやもやした気分を一人で味わっております。 多分、レディベスを見て「こうだったらいいのに」と思うのがスポットライトミュージカルにつながる私の想像力のなさがそもそもよろしくないのだとは思っております。 そういう「印象」って言葉が分かって1回しか見てないものより、複数回見て言葉が分からないほうが、いいイメージが記憶に刻まれるというのもなんとなくわかっています。 分かったうえで、なんとなくもやもやすっきりしないものを言葉でまとめてみます。 こんな視点でレディベスを語れるのは、世界中で私だけでしょうし(笑)。 うーん…スポットライトミュージカルのほうが面白い…というより、先行弱小プロダクションで似たようなものがあると分かっている人に作ってもらいたかった…が一番本音かな。 そういう意味でもドイツ語圏での上演は期待したいです。
ちなみにスポットライトミュージカルのラインナップは以下の通り。 ●聖女エリザベート 再々演3回観劇。 実在の聖女、エリザベート・フォン・チューリンゲンの物語。 貧しい人々を助けた聖女物語と夫とのラブロマンスがメイン。 一応名前を連ねてみましたが、「レディベス」を見てるときにこの作品は不思議と思い出さなかった。 (ちなみにこの作品を見ているとJCSを思い出すけどね)
●女教皇 初演、再演、再々演合計7回観劇 貧しい村に生まれた少女ヨハンナが男装をして教皇ヨハンネスになるという物語。 伝記仕立てだけど、あくまで想像上の物語。 小説が原作だけど、印象としては映画版の流れに近い。 「語り部は主人公の師」「才覚のある女性の出世物語」「宿命か恋か」「敵対勢力により無実の罪で投獄」「人々に求められて即位」…あたりの印象がかぶるので、レディベス見終わった後は女教皇を見たくてたまらなかったです。
●フリードリヒ 初演はDVDのみ、再演を2回観劇。 フリードリヒ大王の伝記。 物語の長さが68年とかわりと無茶。 よくよく振り返ってみたら「王位継承者が王位を次ぐ」ミュージカルってあまりないですね。 真っ先に思い出したのが「ライオンキング」というくらい、ない。 (「アイーダ」も含まれる?) 実在の人物の物語ということで、1幕見てるときはちょこちょこ思い出しました。 物語の構成的には真逆ですけどね。
●コルピングの夢 初演、再演合計5回観劇。 実在の聖職者、アドルフ・コルピングの青年時代の話。 うだつの上がらない靴職人が修道士になって自分の道を見つけるまでの話。 本人は実在だけどストーリーはほぼフィクション。 「史実の人の中にオリジナルキャラ混ぜると難しいよね」と、去年初演を見たときに思ったのですが、そのときの反省点を「レディベス」見た時にまんま思い出して頭抱えてる。 歴史ものですが、その人の人生の途中から始まってなにかを成し遂げたわけでもなく学び終わって途中で終わるということで、似てはいないけどなんとなく比較したくなる。
レパートリーとしてはあと一作、「ボニファティウス」がありますが、これは見てないので除外。 いろいろ作品持っていますが、設立からやっと10年のプロダクションです(最初のうちはたぶん会社じゃなかったと思う)。
・物語の始まり 「女教皇」以外は「知ってる人」向けの作品ですが、冒頭シーンはアンサンブルシーンになっていて基本的に派手でとても好き。 「女教皇」は即位のシーンから時間が戻って主人公の幼少期になってそこから物語が進んでいく。 コルピングは時代背景の説明からナレーションに。 このナレーションがつまらないけど、最初のアンサンブルシーンがかっこいいからそこで物語に引き込まれる。 「物語の背景を説明しなくてはいけない」「1シーン目ではインパクトのあるシーンを持ってきて気持ちをつかまなくてはいけない」ということはよくわかってると思う。 (というか、「モーツァルト!」も「エリザベート」もわくわくするオープニングだったのに、テクレンブルクで見たMAも同様だったのに、「レディベス」はどうしてこうなった…)
・主人公の師 「女教皇」は主人公の生涯の師、エスクラピウスによって幕が開き、彼のナレーションで終わります。 アスカム先生見てるとどうしてもエスクラピウス先生思い出してしまって…。 あくまで「学校の先生」というかかわり方だけど、幼いヨハンナの才能を見出し、子役時代から10代の娘時代までずっと面倒を見てくれた。 一度、田舎町からローマに栄転してしまって別れるけど(アスカム先生が出ていくところではもちろんこのこと思い出した)、ローマで再会したとき、自分の大切な教え子が、自分の元を離れてもちゃんと成長し続けていてくれたことをうれしそうに見守っている姿とか大変印象的。 便利キャラすぎて「エスクラピウスってなにもんだよ」とミュージカル雑誌に突っ込まれてたりしましたが。 語り部であり、互いに信頼関係があるのがとても好きだった。
・主人公の才覚 「女教皇」は結構しつこくヨハンナの才能を書いていた。 「統治者」としてふさわしいかどうかはともかく、「賢い」は子役時代を描いていたこともあり、いろいろな形で描いている。 特に子役は「賢い」をすごく大きな印象を持って表現できるとは思いました。 「賢い大人」の表現は難しいですが、10歳くらいの子供がさらっと大人の意地の悪い質問に答えたりすると「この子はすごい」という印象がずっと続きますから。 「フリードリヒ」「女教皇」ともに、本当に統治者として才覚があったと示すのは即位の後なんですよね。 そういう意味で、賢さを示しやすい子供時代や統治者としてなにをやったかを描かないで「王者としての資質」を描くのは難しいのかもしれません。
・処刑のイメージ アン・ブーリンのことを私自身がほとんど覚えてなくって、なぜかと思ってましたが、明らかにカッテのこと思い出してました…。 処刑された人物の幻影で、言っていることは本人というより主人公の思っていることの投影…どう考えてもカッテです、本当にありがとうございました。 ちなみにカッテが何者かというと「王太子フリードリヒが父の暴行に耐えかねて国外逃亡をしようとしたときに手助けをした罪で投獄。裁判所は終身刑を言い渡すが「この国から司法がなくなるのとカッテ一人がなくなるのとどちらがいいか」という国王の鶴の一声により処刑」という人。 ミュージカルでは序盤から終幕まで老フリードリヒの傍らにいます。 史実でいったら、アン・ブーリンは処刑されるほどであったかどうかはともかく、王妃になるために宗教も捻じ曲げた女という印象が強く、どうにもイメージがよくないので、ミュージカルの描かれ方に違和感があってのめりこめない部分はありました。 存在意義も謎ですし。 逆にカッテは史実も大変ドラマチック(と言うのも失礼ですが…)ですし、ミュージカルでも登場時間が長く、彼なしでは物語は進みませんし終わりません。 そんなわけで、どうもアンを見る度にカッテを思い出してました。 でも、アン・ブーリンにソロがあるのはたいへんうらやましいです。 幻影カッテ、歌わないんだよな…ミュージカルなのに…(最後に数フレーズ歌うくらい)。
・主人公の恋人の行方 ロビンの処遇について「女王になってもそばにいてもいいのでは」「殺そう」という意見を見ましたが、前者だと女教皇、後者だとフリードリヒっぽくなるなあとほかの方の感想を読みながら思っていました。 「女教皇」で恋人ゲロルトはヨハンナが男装のまま教皇になるのは反対してますが、反対したまま去ってしまったかと思ったらちゃんと残ってくれたという話。 もちろん「教皇」に恋人なんているわけありませんから、二人の関係は秘密のまま続いていく…となります。 「フリードリヒ」はフリードリヒが逃亡して捕えられたときに、共犯と判断されてカッテが処刑され、遺書でフリードリヒによき王になること求めてるし、この処刑のあとからフリードリヒも王となる覚悟を決めていく…というのが史実なので、恋人が殺された傷心を胸に…というのはどうにも「フリードリヒ」っぽいなあと思っております。 …カッテは恋人ではありませんが、物語の構成整理するときは恋人枠に入れたほうが分類楽なんだよ…(ヤケ)。
・即位 これはミュージカル的表現としていいなあと思ったのが「女教皇」の「Das bin ich(これが私)」。 教皇の装束を自分でまとって一曲歌いあげるシーンで、歴史的事実とか考慮すると、こうやって一人で着替えるのは「なし」だと思う。 でもミュージカルとしては、「頂点に上り詰めることの決意」をうたい上げながらその姿になっていくのはすごくわかりやすいしすっきりする。
・即位前後 「で、ベスは即位してどんな女王になったの!?」ということに私は人一倍こだわってて不思議だったんですが、「フリードリヒ」が思いっきり「即位前後で別人(史実からして)」だったからだと思いました。 音楽を愛して「王になったら美術館作ってオペラ座作って…」と言っていた、「戦争なんてしない、軍服なんて似合わない」と言っていた子が、あちこちに戦争仕掛ける王様になるんですから、人間どうなるか分かんないよねえと思いながら見てました。 「レディベス」、史実知らない側の人間からすると、「愛と平和」の世界が本当に来たか、いまいち確証がもてませんでした。
・ヒロインがとらわれたとき、恋人は… 「ヒロインが大ピンチで孤独にふるえてるんだから助けに来いやー!」とちゃぶ台ひっくり返した「女教皇」初演。 その思いは私だけのものじゃなかったのか、再演では助けにきて「一緒に逃げよう」と言ってくれてとてもホッとしました。 …ということを思い出してました…。
・どういう人間だったか 特になにを成し遂げたでなく物語の途中で物語が終わるのは「コルピング」と同じなのですが、「コルピング」はコルピングさんはきっと偉い人になったんだろうなあとなぜ思えたかというと、まあ、晩年のコルピングさんが出てきていちいち解説してるということもあるのですが、コルピング自身がどういう人物でなにをしたいと思っていたかはっきりかかれていたからかなと思います。 「修道士になる」というのさえも定められた未来でなく自分でつかみとった未来で、そこで「人を救いたい」という思いを叶えるにはどうしたらいいか…と考えて最後に方法についてつかんだと言うのが物語の大まかなあらすじです。 若い時代のその人の人間性が見えてるから、やがてこの道をまっすぐ進むんだろうなあと思えました。 ベスの場合、絶対に譲れない信念って何だったんだろうなあと思ってしまうのです。
・学んでいく 「世間知らずが学ぶ」という面は「コルピング」ですごく感じました。 コルピングが「なにがあってなにを学んだ」かがはっきりしていてむしろ面白くないというのはこの作品の概要で以前書きましたが、逆に言えば「なにを学んだか」ははっきりと描かれている。 コルピングさんは「貧しい人を救いたいという理想を教会で語っているだけではかなえることができない」ということを2幕を通じて学んでましたし、ちゃんと貧民街に足を運んでチンピラに絡まれて「現実」というものを思い知ってました…というところまで書いていて、そういえばベスはメアリー女王下での圧制って学んでたっけと思いだした。 お忍びで出ていったとき学んだのは「一市民が自由を謳歌している」ことだよなあ…。
・「誰」を描きたかったか 「レディベス」の感想でも書いたのですが、これだけ「歴史」ミュージカル見ていると、結構世の中にミュージカルネタになる人っているんだなあと思わされます。 いろいろネタがある中で「その人」を選ぶ理由、「その人」をモデルにした架空の誰かでなく、「その人」そのものにした理由。 「聖女エリザベート」や「フリードリヒ」は「その人」ならではのエピソードを色々連ねていて、ここまで描いたら「別人」にしても「あの人だよね」と言われるから「その人」そのものにした方がいいというのはわかる。 「レディベス」のエリザベス女王らしさがテーマから結構はずれていて、これじゃ「エリザベス女王」である理由がないなあと思ったのですが、「エリザベス女王」でなければいけない理由があった。 「コルピング」は最後にうまくまとまりすぎててつっこみ入れたくなるのですが、「しのごの言ってもこのあとコルピングさんはいろんなこと成し遂げる偉い人になるのが史実です」と言われると反論できないなあと思ったものです。 同様に、「しのごのいってもこのあとベスは立派な女王になるのは史実を見ての通りです」って言えるなあと思った次第。
・「レディベス」 「フリードリヒ」が「Alte Fritz(老フリッツ)」「Friedrich der Grosse(フリードリヒ大王)」と呼ばれていた…という前置詞で劇評が始まっていたので、「レディベス」という名前を聞いたとき「レディベス」と呼ばれて親しまれていた女王の話かと思ってました。 違った。 …仕方ないじゃないか、世界史の授業記憶にないんだから…。 ちらしに「レディになる」って書いてあったんだから…。 できればこのあたりのフォロー、作中でしていただきたかったです。 たぶんスポットライトミュージカルなら冒頭に子役を使って表現するだろうなという妄想(とても子役を使うのが好きなプロダクション。登場時間が5分を切ってても気にしちゃいない)。
・人々に認められて 「女教皇」はどこの馬の骨かわからないヨハンナが教皇に登りつめる話ですが、ローマに出てきてから「人々に認められる」というのはちょこちょこ描かれてます。 医者として名を上げる→教皇の病気を治してそこから教皇のそばにいることができる→教皇に認められたあたりからローマの人々もヨハンネスの名前を知るようになる…という風に、段々認められていってる流れがあるから、教皇の死後、ヨハンネスが教皇に選ばれるというのもそこまで突飛に思えない。 また、人々が選んだからこそ即位が歓迎されるというのもわかる。 一曲使って段々人々の口から「ヨハンネス」の名が出てくると語られてるのって結構重要だなあと思っております。
・即位か恋か 「女教皇」のメインテーマだったからどうしてもこれを出されると思いだしてしまう。 しかも即位はいきなり降ってわいた話だし、恋人は幼少期からずっと守ってくれた人で、一時別れて10年以上たってようやく再会できたから思いが募っているのもわかる。 突然「どちらかを選べ」と言われて迷うのもわかるのですよ。 …ただ、この「迷う心は」曲で表現ほしかったとは思う、ミュージカルなんだから。
・不幸な青年時代 「女教皇」のヨハンナは誰からも認められない時代が長すぎて、ローマの医者として人を助けるけれど進んでその輪に加わらなかったのが印象的。 あまりにもいろんな裏切りを受けてきたから自分から心を閉ざしているように見えました(また、その姿が人に認められたいから人を助けるのでなく、それをしたいから成していると感じられた)。 フリードリヒは父王があまりにも厳しすぎたので16歳時はどこかおびえていたし、逆に自分の自覚が出てきた18歳の時は反抗するようになっていた。 あの父のもとで育ったという雰囲気を感じました。 ベスはどうにもおっとりしていて、不幸な青年時代を送った気がしないのですが、史実的には結構厳しい時代を生き抜いてきた気がします。 「愛されて育ったプリンセス」という風に表現していた方がいらしたのですが、それは納得できます…納得できちゃっていいのかな…。
・(ここなに書こう…) 「レディベス」でベスがロビンをベッドに引きずり込んだシーンはちゃぶ台ひっくり返したいレベルで「いらんわー!」と思ったものです。 作品での位置が完全に「歴史もの」より「少女マンガ」なんですよね。 「フリードリヒ」で若フリッツが年上のお姉さまにおいしくいただかれた…もとい、ある女伯爵との関係は史実にあることで私の手元の本では「病気もらってきて子供ができなくなった」「性的不能でないことを示すための作り話」とふたつの説があります。 「女教皇」では結局ヨハンナ妊娠しちゃいますし。 このあたりの使われ方すると「歴史もの」っぽくなるなあと感じております。 ベスは病気も妊娠もわかった上で、そんなことどうでもいい…と思ってロビンを招き入れたと言うより「そういうことはつっこまない方向で」という雰囲気だからすっきりしないんだと思います。
・敵役 敵役については「女教皇」で教皇の座を狙うアナスタシウス親子が好き。 ストーリーとして20年とか30年扱ってるので当然といえば当然なのですが、時が流れるに従って敵側も変化していく…子が親についていく関係だったのが子が親を切り捨ててそれでも悪役として存在し続ける関係に変化するのがおもしろかった。 これを考えていてちょっとびっくりしたのが「フリードリヒ」。 敵役と言えるのは父王だとは思いますが、「父よ、私はあなたの生き写しになった」というナンバーが示すとおり、主人公が敵役に近づくという作品自体が珍しい気がします。
・「レディベス」と「フリードリヒ」 色々比べてみると逆の構成だと思います。 史実要素は少なく創作が大部分を占めて口当たりの軽い作品と、史実をほぼそのままやったせいで恐ろしく暗い作品。 少女が王になる物語と、王が過去に切り捨てた自分の青年時代を振り返る物語。 若い一時を切り取った作品と、人生のほとんどを駆け足で振り返った作品。 基本的に主役のいい面が前面に出ていた作品と、欠点も色々描かれていた作品。 ところで「フリードリヒ」はその人を知っている人向けの作品というのは確実ですが、「レディベス」はどっちだったんだろう? 知らない人向けでいいの?
・宗教的対立 宗教の話はドイツ語が聞き取れないので基本スルーしてます。 …なのですがちょっと思い出した「十戒」。 これはスポットライトミュージカルでなくクンツェさんの作品です。 上記の通りほぼスルーでしたが、一つ感じたのが、主人公の敵役であるナロッハは悪人ではなかったということ。 信仰というか考え方というかそういうところに違いはあったけど、間違ってるとは感じなかった。 なんというか、そういう作品を書いた人の作品かなあとちょっと思ってしまったのです。
・「神」 上の続きになりますが、「神」の扱いがすごく日本人っぽくて原詩が読んでみたいと思っています。 クンツェさんの作品だと「Tanz der Vampire」や「レベッカ」くらいしか訳してませんが、「神」が絡んでくる歌詞は「神との対話」という日本人の概念にはほぼないと言える概念が紛れ込んでくる。 「レディベス」は「神」という言葉が頻出するのに、そういう「日本人にない概念」を感じなかったんです。 訳の良し悪しというより、実際は多分違うと思うので、どうなったか気になってます。 なんというかな、「レディベス」の「神」は能動的に動くけど、私が訳して感じた「神」は意志は持っているけど見守っているだけ…という違い…かな。
色々書いてふっと思ったのが、もしドイツ語圏で上演するならメアリーが二番手になるのも夢じゃないかなあということ。 ベスとメアリーの対立が「二人の王女」みたいでいやだと思われて日本では敬遠されていたというのなら、ドイツ語圏ではあまり関係ありません。 逆に「即位か恋か」を中心とするのなら、後発大型プロダクションなら「女教皇」を大きく越えなくては話にならなくなる。 (ミュージカル版はともかく、先の映画版が結構評判良かったので、結構知られている物語だと思うんです) そういう意味で、ドイツ語圏では物語の構成が違うものになるのではないかなあと思っています。 ただ、ウィーン劇場協会が好んで買うような作品かというと違う気がしますし、ステージエンターテイメントも最近は口当たりの軽いものの上演が多くなってます。 MAを上演したブレーメンの劇場も最近は大型ミュージカルなんて上演してません。 そう考えると、テクレンブルクの野外劇場くらいしか上演地が思い浮かばないのがつらいところです。
余談。 この記事を書くためというわけではないのですが、そのほか感想整理するためにもフリードリヒ大王の史実を調べています。 フリードリヒは王太子なのだから本当はもう少し穏やかな青年時代が遅れたはずなのに、父親がおかしかったせいで本当に悲惨な青年時代になってます…。 ざっくり調べた感じだと12歳から18歳まで肉体的身体的暴力にさらされて逃亡→投獄の流れなんですよね…つらい…。 父親であり国王が相手なんで逃げ場がないんだよ…。
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(2014/09/15(Mon) 01:03:38)
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「Kolpings Traum(コルピングの夢)」について
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ドイツのFuldaに拠点を置くスポットライトミュージカルプロダクションの5作品目。実在の聖職者、Adolph Kolpingの若い頃の話です。 このミュージカル、私は2013年初演と今年の再演、両方見ることができました。個人的にはとても好きな作品なのですが、「評価」をするのがとても難しいです。 どういう話なのかと言いますと、なにせ日本語の資料がほぼない状態なのでつたないドイツ語に頼ることになりますが…。「羊飼いの元に生まれ靴職人であったコルピングが修道士となり、人々を助けるために職人協会を造る決意をするまでの話」となります。実際のエピソードをつなぐのでなく、靴職人仲間のカールとその妻スザンナが没落していくことでコルピングは教会の中の世界にとどまっているだけでは人々を救えないことを学ぶ…というような物語になっています。 この作品、欠点ははっきりしています。なんというか、話の流れがお行儀よすぎるというか分かりやすすぎるというか、とにかく遊びがほとんどなく「偉人伝」となってしまっているところです。いろんなエピソードを通じてコルピングが成長していくのは分かるのですが、このイベントがあってこういうことを学んだ…というのがいかんせん、言葉が分からないのに、分かりやすすぎるんです。スポットライトミュージカルの作品4作品見ていますが、ここまで誰に見せても問題ない、一から十までしっかりしたお説教ミュージカルってほかにないですよ…。 質が悪いことに…と言ってしまってもいいかな、いろいろつっこみを入れたいのですが、一応実話ベースなのでむやみにつっこみも入れられないですよね(苦笑)。羊飼いスタートで修道士になったというだけで十分立身出世ですし、そうやって貧しい中から夢を叶えたのだからそこでの地位を固めることに腐心すればいいのに、「すばらしいお説教」するだけじゃ人々が救えないと教会を飛び出したのもすごいと思う。また、「血を流さずに貧しい人たちを救いたい」という考えも理念だけならきれいごとですが、「そういう理想だけではなにもできない」ということさえも物語で表現されていて、実際に血を流さずに人々を救った人の実話ベースの物語なのでつっこみ入れる隙がありませんし、労働者一人一人では資本家に各個撃破されるだけだからみんなで力を合わせよう!という理念もなんら間違ってません。…という、間違ったことはなにひとつ言っていないのですごくつっこみ入れるのが難しい作品だったりします…。ミュージカルとしてもうちょっと表現をがんばってほしいところもあるのですが、なにせ小さなプロダクションががんばって作った新作だとか、ダブル主人公と言えるコルピングとカールは二人ともこのプロダクションが発掘したと言っていい若手だとか、結構がんばってるのが分かってるので、どうもきついことが言いづらいのです。 …といろいろ言ってしまいましたが、たぶんこの作品好きなんだと思います。好きじゃなければ、遠征しなきゃ見れない作品を5回も見てません(笑)。去年も今年も、この作品を見られる日程で旅程をくみました。役者目当てということは否定しませんが、なんだかんだで見れば楽しんでしまう作品です。 良くも悪くもまっすぐな作品です。コルピングのきまじめな性格…痛い目を見てもまっすぐ前を見つめ続ける姿はとても好きです。カールの兄貴分気質はコルピングとは全く趣をことにしてますが、それでも真っ直ぐで見ていて心地いいです。若手二人が全力で、自分らしさを保ったままそれぞれ別の人生を歩いていくというのが、オリジナルミュージカルとしてとてもおもしろいです(二人が逆の役を演じるなんてあり得ないと思うほど、二人とも彼らの役を演じています)。工場の経営者のカルヒャーは悪役と言うべき役ですが、どちらかというとエンターテイナーのよう。Claus Damがベテランの底力を見せてくれています。カールの妻スザンナはどちらかというと苦難に耐える感じで、Sabrinaが演じる役じゃないんじゃないかと思うこともありますが、苦しみを大きな声で訴えるのでなくじっと心に押し込めている姿はベテランの風格すら感じます。 そんなわけで、いろいろ思うところはあれど、なんとなく見に行ってしまう好きな作品です。 物語としてはコルピングが靴職人としての境遇を嘆き故郷を飛び出していき同じく靴職人のカールとケルンに行きます。ケルンでカールは工場での仕事を見つけ、スザンナという靴職人の娘と結婚します。コルピングは工場の持ち主カルヒャーの病気の妻フリーダの朗読者を経て修道士になるためにケルンから旅立ちます。数年後、修道士となったコルピングはケルンまで戻って来ますが、そこでカルヒャーのやり方に異議を唱えたために工場を首になり職にありつけなかったカールと再会します。…ここまで書けばなんとなく「やりたいことはわかるんだけど…」と私が思った理由もわかっていただけるかと思います(苦笑)。いい話は、いい話なのです(だから突っ込みづらい)。
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(2014/08/31(Sun) 23:25:10)
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