観劇+αの日々
■エリザベートとフランツのハンガリー訪問
エリザベートはそこそこ好きで東宝初演からウィーン公演、日本来日を含むツアー公演といろいろ見ていますが、何度も見ているとやはり新しい発見があるものです。
このことについて気が付いたのは忘れもしないドイツツアー公演。フランツはMathias Edenbornでした。この公演、最初は行くつもりがなかったのですが、なかなか決まらなかったフランツ役がかねてから好きだったMathiasだと知り、大慌てで日程調整して行きました。
ハンガリー訪問のシーンでふと思ったことがありました。
「フランツは小さなゾフィーの死を悲しんだんだろうか?」
史実は置いておいて、ミュージカルでの話ですが、これについては完全に先入観がありました。自分の子供が死んだのだから嘆くのは親として当然と思っていましたし、なにより東宝版初演の鈴木フランツの嘆きぶりがずっと胸に刻まれているので疑問に思ったことはありませんでした。けれどふと気づいてみると「娘」です。世継ぎにはなれない「娘」。そう思って台本を見てみると少し気になる点がありました。
東宝版だとだいたい以下のようなことをはなしています(うろ覚え)。
「子供たちを返したなら、どんな遠くへも参りましょう。まず子供たち。返してください」
「母上に、掛け合うよ」
手元にあったエッセン公演の時の台本だとこんな感じです。
「子供たちと一緒なら旅をします。まず子供たちを返して!そうしたらあなたの公務にもしたがいます」
「旅は散歩ではない、子供たちはまだ小さい」
「もう長いこと子供たちと離れています、それなら答えは「ノー」です」
「神よ。もう君がなにを考えているかわからない。だが頼む、君の言うとおりにしよう」
ほぼ直訳なので、ニュアンスは拾えてないかもしれませんがなんとなくのイメージは伝わるかと思います。これを読むと旅に子供たちを連れていくことは危険であるとフランツは認識していた気がします。東宝版と違うところは色々ありますが、「小さなゾフィーの死は突然訪れたものでなくあらかじめ予見できたものだった」という違いは、結構大きなものだと思います。
ハンガリー訪問のシーン自体の違いはさらに大きいので面倒なのですが・・・。印象的なのはエルマーたちの台詞。
「彼女は悲しんでいるように見える」
「子供たちは病気だ。小さなゾフィーは高熱だ」
エリザベートは子供たちが高熱を出しているのを知っているのにその場にいる・・・この直後に棺を持った「死」が現れるのですが、「死」が能動的に小さなゾフィーを殺したのでなく、長い旅に耐えられず高熱を出した子供が亡くなった、というありきたりの悲劇の中にエリザベートが「死」を見た・・・というように印象が結構変わります。
上記の公演は1回しか見ることはなく、印象の違いを抱えたまま台本を読みつつ時は流れました。
さて昨年、上海までツアーエリザベートが来るという話がありました。最初は行くつもりなどなかったのですがなかなか発表されなかったフランツ役が前から応援していたMaximilian Mannで(以下略)。くだんのシーンについてどう感じるかと思いながら見に行きました。
先入観はあったのかもしれませんが、やはりフランツは「子供の命が危ない」ことを知りながら子供たちと共にハンガリーに行ったように思えました。それはエリザベートとの会話のシーンでも思いましたし、ハンガリー訪問のシーンでも感じました。フランツの隣で、熱を出して苦しんでいる子供のことが心配でたまらないエリザベートをとがめるような眼差し、きっとエリザベートが子供のそばにいたいと訴えたとしても許さなかったと思えるフランツの眼差しが、それを感じさせました。
ちなみにこのときのエリザベート、つまり子供が高い熱で苦しんでいるのにそばにいることさえできず不安でたまらず、夫にそれを訴えようとするも優しいはずの彼は「約束を果たせ」とばかりに冷たい目線で一瞥するばかりで逃げ場もなく、どうしようもない不安でふるえている彼女は恐ろしいほどまでに美しく、先ほどのエルマーたちの言葉の続きの通り「心配ごとが彼女をさらに美しくする」としか言いようがなく、とても印象的なシーンでした。こう、なんと言ったらいいのか・・・子供が病気であるという親にとっての自分が苦しんだ方がましという状況を「苦悩する皇后は美しい」でまとめてしまうこの作品、やはりとても好きだと思いました。
余談ではありますが、エリザベートという作品でフランツをどう演じるかってふたつパターンがあると思います。ひとつは為政者としてはしっかりしているけれど弱い部分があった人という方法、もう一つはマザコン→嫁の尻に敷かれていただめ男という表現。どっちであっても話は破綻しないと思いますし、ウィーンであったらどちらでもいいです。史実のフランツ・ヨーゼフがどういう人でありなにをしたかという証は街中にいくらでもありますから。でも海外では「フランツ・ヨーゼフ」を知らない人も多いのですから、実在の人物に敬意を払い、「完璧な人ではなかったが、並以上の王者であった」と思わせてほしいという願いがあります。幸いにして後者のフランツを私は見たことがありません。また、先述のMathiasもMaximilianも、エリザベート目線では確かに問題のある夫だったのかもしれませんが、君主として育てられ、それ以外の生き方を知らなかった人間・・・という表現の方向性が大変好みでした。
ゆず
2016/07/25(Mon) 01:30:50
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