マリー・アントワネット
2006/11/12
帝国劇場

マリー・アントワネット涼風真世
マルグリット・アルノー新妻聖子
アニエス・デュシャン土居裕子
アクセル・フェルセン井上芳雄
ルイ16世石川禅
ボーマルシェ山路和弘
オルレアン公嶋政宏
カリオストロ山口祐一郎
ローズ・ベルタン春風ひとみ
ラパン夫人北村岳子
ランバル公爵夫人河合篤子
ロベスピエール福井貴一
ベメール/エベール広田 勇二
ラ・フェルテtekkan
ギヨタン博士/裁判官の声佐山陽規
レオナール/ロアン大司教林アキラ


 その虚栄心、偏見、愚かしさにもかかわらず、彼女は愛すべき人物であり、 きわめて悲劇的な人物でもある。

 パンフレットにあるクンツェさんとリーヴァイさんのコメントより引用させていただきました。 このコメントを読んで、ちょっとびっくりしてしまいました。 この人物像は正直私自身が求めていたものであり、そして実際の舞台には存在しないものだったからです。

 この作品、音楽は美しかったです。 前衛的なセットは面白くって、観ていて心が弾むことも何度かありました。 東宝のミュージカルの照明はいつも不満に思ってばかりいたんですが、今回はその美しさに陶酔することが出来ました。 役者さんは芸達者な方が多く、日本のミュージカルのレベルも上がったものだと感動する部分がありました。 でも面白くなかった。 面白くなかった・・・というのは正確ではないかもしれません。 「不愉快だった」というのが見終わったときの正直な感想です。

 一番辛かったのがタイトルロールであるはずのマリー・アントワネット。 一幕の軽薄さは目にあまるものがありました。 彼女に同情できないのはもちろん、感情移入も出来ないし、愛しいとも思えない。 描きようによってはどうにでも出来たと思います。 現代には買い物のし過ぎで借金を多量に作り上げて自己破産する方がいるので、それと重ねることもできたでしょう。 周りがみんな享楽的で、その中にあって感覚が麻痺してしまって同じように享楽的に生きてしまった愚かな女としてもいい。 今のままではただ下品でばかで底意地が悪い女です。 東宝の作品では「貴族は下品でなくてはならない」という決まりでもあるのでしょうか? この作品に限らず、いつも観るたびに不快になります。 見た目も美しく、所作も上品。 しかし自分が身につける宝石を買うお金がどこから来るのかも考えず、搾取をしているのに貧しいものを見下す。 享楽的な人生を送ることによって自分の身が沈んでいくことも知らずに、一時の美しさを、きらめきを求める。 そういう外見的な美しさと、内面的な醜さ、愚かさの両立を日本のミュージカルに求めるのは間違っているのでしょうか? 欧州産のドラマや小説、日本産の漫画などでは普通に表現できていることを求めているだけのつもりなのですが・・・・。
 すみません、話がずれました。 アントワネットの品の無さは、とても貴族と思えるものではありませんでした。 気品も無いのに「私は王妃なのです」と繰り返している部分に腹が立って仕方ありませんでした。 「パンがなければシャンパンを」などというくだらないギャグを思いついた日本人スタッフに対しても腹が立ちます。 このシーンのせいで彼女は高慢なのでは無く、ただ底意地が悪いだけに見えてしまいました。 はっきり言って、気分が悪いです。
 愛すべき人物とは、善人だとは限らないと思います。 何というか・・・「ばかな子ほどかわいい」と「ばかだからむかつく」の違いとでも言いましょうか。 この作品のアントワネットは「ばかだからむかつく」という感じがしました。 2幕のアントワネットは良かったという意見もありますが、私は1幕の彼女の面影を引きずってしまって、 全く同情ができませんでした。 「自業自得」の一言で終わってしまいます。 この辺りは個人差があるとおもうのですが、本来舞台なら「1幕のアントワネットの愚かさがあるからこそ 2幕の美しさが生きる」というように作らなくてはならないんじゃないでしょうか。 「1幕は良くなかったけど2幕は素晴らしかった」という感想が出てくる時点で、作品として間違ってると思います。 また、フェルセンが何故そこまでアントワネットを愛し続けるのか分からないのです。 愚かであったかもしれない、けれど人に愛される素質を持っていた。 そういう女性なら話にまだ筋が通るかもしれないと思っていたときに目にしたのが冒頭にあげた クンツェさん、リーヴァイさんのコメントです。 これがそのまま舞台に再現されていれば、作品自体、また違った印象になったような気がします。 アントワネットとフェルセンのシーンは曲も美しく確かに見せ場となってるとは思うのですが、 お互いに愛を感じませんでした。 相手を見詰めて、相手に向かって「愛してる」と言っているというより、気持ちを込めて「愛してる」と一人で勝手に 言っているようにさえ思ってしまいました。 キャッチボールでなくって、お互い好きな方向にボールを投げているだけというか・・・・。 全体的にそう感じる部分もあったのですが、この二人のシーンは特に顕著にそれを感じてしまいました。
 余談ではありますが、巷では評判の良いルイが私にはどうしてもだめでした。 「あ、そう」は論外としても、全体的に人はいいんですが、「だから何」としか言いようがないんです。 禅さんはこんな役も出来るのかと感心できるところもあったのですが、 王として全てがだめで共感できませんでした。 せめて処刑のシーンを出して、その部分で威厳というか風格を感じさせてくれれば感想も違ったかもしれませんが・・・。

 この作品、面白くなる目があったのにそれがきれいにつぶされていると感じました。 アントワネットとマルグリットが知っていた同じ曲。 マルグリットを操るようなカリオストロの動き、カリオストロの王妃への執着。 この辺をうまくつなげることは出来ないものかと思ってしまいました。 カリオストロが何をやりたかったか全く分からないんです。 王妃を失脚させたかった、そのときの重要な駒がマルグリットだった・・・というような雰囲気はあったのですが、 中途半端に終わっていたような気がします。 もう少し「事件の黒幕」的な面を見せてくれないと、カリオストロの存在自体が不要に思えてしまいます。 カリオストロのことなのですが、カーテンコールで最後に出てくる意味が分かりません。 四季の「夢から醒めた夢」を例にすると分かりやすいのですが、この作品のカーテンコールで最後に出てくるのは 夢の配達人です。 ただしこのときのカーテンコールはまるでカーテンコールを含めて「これは私が配った夢ですよ」と 夢の配達人が言っているように思えたので違和感がありませんでした。 カリオストロも同じように「これは我が手中の駒です」というようにまとめてくれれば違和感を無かったと思うのですが・・・。 何故主役でもない人が最後にでてくるかさっぱり分かりませんでした。

 歴史物を扱うミュージカルとしては失格。 最悪だったのは「パンが無ければケーキを食べればいい」の歌。 この台詞はアントワネットが王妃になる前に全く別の人間が言った言葉で、それであるのに アントワネットが言ったかのようにされて、中傷に利用されたという意味のある言葉です。 それをさもアントワネットの取り巻きが言ったかのように使う無神経さに驚きました。 史実を扱うのでしたら、明らかなプロパガンダには踊らされないよう、しっかり調査をしていただきたいです。 まともに調査をする人間はこのカンパニーにいないのかと思ってしまいました。 ルイが左右違う靴をはいていたというのもおかしな話です。 この時代の貴族の着替えは使用人に任せきりであったはずです。 国王の靴が左右違うなんてことをやってしまったのに誰も気付かない、誰もとがめられないというのは ありえないのではないでしょうか。 このエピソードのおかげで、「宮廷に住む国王の着替えのために存在する多くの使用人」の気配を 消してしまったことが残念です。 歴史ものってちょっとした台詞や仕草でその時代の雰囲気を伝えなくてはならない、 だから難しくそこがおもしろいと思うのですが、わざと歴史ものの魅力を消すようなシナリオを加える意味が分かりません。 また、「首飾り事件」「王家の逃亡」という歴史上大きな事件の扱いも下手だったと思います。 「首飾り事件」はただの説明台詞だけになっていて、それがその時代どう扱われていたのか、主要な人物は それについてどう感じていたかが全く見えてきませんでした。 特にマルグリットは何故この事件に係わろうとしたのか、事件の中で何を感じたかが全く書かれて いなかったのが疑問です。 創作したキャラクターをどう歴史的事件にからめるかは、製作者の腕の見せ所だと思うのですが・・・。 この程度の展開にするならマルグリットをこの事件にからめる必要はなかったと思うんですけどね。 また「誰が何をしたか」という表現では無く「この事件を大衆はどう受け止めたか」という 表現の仕方ですっきりまとめた方が良かったのではないでしょうか。 「王家の逃亡」もあっさり終わりすぎて驚きました。 これは本で読みかじった知識なのですが、革命当初は民衆の憎しみはそこまで王家に 向いていなかったという話を聞いたことがあります。 それが一気に憎しみに変わったのはこの逃亡、つまり明らかな国家と国民への裏切りの行為のあとであったと。 国を捨てるというのは人にとってそれこそ大きな出来事であると思うのですが、それに対する葛藤も無く、 この裏切りに対する民衆の怒りの描写も無く、歴史がだんだんと動いていくという迫力を全く感じることが出来ませんでした。 歴史の事実をうまく使えないなら、歴史ものにする必要なんてないとさえ思ってしまいました。
 あと、一般市民が持つ「貧しさ」が全く感じられない。 生き延びるために命を削るような暮らし、身を売り、身を削り、それでも生きていく。 正義よりも、正しさよりも、明日生きるためのパンを、それを買うための金を。 そういう切実さがあったのではないでしょうか。 少なくともマルグリットは「パンがない」と言っているのですから。 でも、その切実さが伝わってこない。 それどころか、貧しい人たちを愚か者とあざ笑うような製作者の視線が感じられました。 感じたのはマルグリットが娼婦に身を落とすシーン、女性たちが行進を始めるシーン。 金のために人が動くということは否定しません。 ただ、その「金」の価値は人によって違う。 貴族たちにとっては身を飾る宝石を買うべきもの、現代の私たちにとってはより楽しい日々を送るために必要なもの。 でも、貧しいものたちにとってそれは今日食べる、明日食べるパンを買うためのもの、命をつなぐためのもの。 金を稼ぐとは、生きていくのと同じ意味。 だというのに金目当てに動く人々をばかにする目線は正に金を持っているものの論理のように思えました。 飢えの苦しさ、働きづめて働くことの苦しさ、そういうことをまったく知らないし知ろうともしない人の 演出だと感じられました。 マルグリットが娼婦になったピソードも全く意味が分かりませんでした。 「飢えと寒さで身動きが取れなくなったマルグリットをラパン夫人が助ける。 マルグリットは彼女に恩を返したいが彼女には誰かに与えるものは何一つ持っていなかった。 やむなくマルグリットはラパン婦人の店の一員として働き、恩返しをする」 べたべたですが、こんな感じではだめだったのでしょうか。 でも、マルグリットがラパン夫人に何かしらの恩を感じていないとそのあとラパン夫人が殺されたあとのエピソードが 全く生きてこないと思います。 「娼館の主という卑しい職業についていたが、面倒見のいい世話好きのラパン夫人。 娼館の女たちにも慕われていた。 そんな彼女をただ職業だけで見て殺したことを許せずにマルグリットは立ち上がる」ということにしてくれないと、 マルグリットが何故怒りを感じたか分からないんです。 あと、細かい突込みなんですが、この時代のむち打ちって娯楽の一種だったはず・・・・。 それとたったあれだけの鞭打ちで即死はないと思うんですが・・・。 30回あたりから死亡の可能性はありますが、それも傷の化膿によるものだったと思います。 妙に引っかかるんですよね、あのシーン。

 何故この題材で、このキャストで、このテーマを扱うのかが分かりませんでした。 「ベルサイユのばら」でこの時代を知った人は多いのですから、同じ事件を別の角度から見てみるという 脚色もあり得たのではないでしょうか。 狂気の時代と人の残忍さを表現したいのなら、フランス革命より文化大革命のほうが 時代も事件の起こった場所も近いのではないでしょうか(まあ、それがミュージカルに相応しい題材なのかは知りませんが)。 それでもあえてフランスと言うのなら、その上で自由だの正義だの言うのなら 「移民問題」を抜きにしてしまったら今の時代とリンクしてるとはいえないのではないでしょうか。 また、この脚本家はオーストリア人なのですから、アントワネットを「フランスにとついで来た王妃」ではなく 「フランスへ嫁いで行った王女」というようにも表現できたのではないでしょうか。 「フランスへ嫁ぎ、その国の人々と同じことをしていたのに最後には異邦人であるために 事実を誇張されて憎まれた」存在として描くことは出来たと思います。 作品中にもそう書こうとしているのは感じられるのですが、「アントワネットが本当にだめだから憎まれた」という 部分の方が「アントワネットが異邦人であるから憎まれた」より大きくなってしまっている気がします。 民衆からは憎まれる対象であっても、実際はそこまで愚かではなかったというようにしなければ 「異邦人であるため疎外された」という部分は出てこないと思います。 これは永遠に変わらないテーマだと思うのですが、何故これを無視してしまったんでしょうねえ。

 この作品のタイトルを見たとき、観客は「最後まで王族として、母として誇りを失わなかった一人の女性」を 見られると想像するとおもいます。 けれど実際の舞台で私はそれを感じることが出来ませんでした。 「ドレスを失えば、その中にいたのはただの哀れな女」私はそれを感じましたし、演出も それを目指しているように思えました。 ただ、そのために歴史上の有名なエピソード(例えば最後の裁判のシーン)まで 捻じ曲げてしまうのは、ちょっと問題なのではないでしょうか。 歴史的事実より自分の主張のほうが尊いとお思いならご自分のお作りになったストーリーと登場人物で、 お好きなまで自分の思い描く世界をお作りくださいとしか言いようがありません。

 前衛的なセットは好きです。 だからこの作品のセットと照明も気に入っています。 人間は愚かで醜くって残酷だ、このテーマには賛同します。 しかし、世の中にはすでにこのテーマを訴えた上で鑑賞者に共感を与え、エンターテイメントに昇華している作品もあります。 それなのに問題提起だけするのはただの自己満足です。
 とりあえず、キャスト目当てで凱旋公演に行こうと思ったのですが、すっぱり諦められたことだけは感謝します。


 ところで、私はフランスではありませんが、某国(現在オリーブ色の社会主義国家持続中のラテン国家)の革命が 好きで、こちらはずいぶん調べました。 こちらの革命も血なまぐさいし、この国の体制も正しいとは思っていません。 ただ、革命に至るまでの過程を見ていると「じゃあ、ほかにどうすればよかったんだ」という声が聞こえてくる気がするんです。 革命というものを間違ってると言うのは簡単です。 でも、今のままじゃいけないと思って実際に立ち上がった人に対して、何もせず傍観している人が 文句をつけるのはおかしいと思うのです。 人の生き方に、国家の運営に、正解なんてありません。 でも一つ言えるのは、人がやっていることに対して文句ばかり言っている人よりも、 立ち上がって何か行動を起こした人(これは問題提起をしたとかじゃなくって、実際に何か運動をした人)のほうが 尊いのではないかなと思うのです。
 この作品って、もろに「何もしていない人が何かした人に対して文句をつけてる」という、気分の悪い作品なのよね・・・。



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